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姫路文学館「坂本遼展」初日訪問記


 透き通った青空に映える姫路文学館(建築は安藤忠雄)

 去る12月7日の土曜日、折からの県知事選の喧騒がたなびく気配の中、姫路城の裏手にひっそりとある姫路文学館を訪ねました。

 考えてみれば、虚ろな情報を運ぶ記号と化した言葉が飽和状態を超えたこの国で、坂本遼のつむぐ、あたかも地面から生え出たばかりのようなコトバの世界に触れる経験は、天から与えられたカイロス(刻)なのかも知れません。

 読者のみなさんには、ぜひとも会期中に鑑賞していただきたいと強く願います。

 以下には、私の中に残った深い印象を、いくつか記したいと思います。

 これまで遼の故郷加東市により企画された回顧展はあったにしろ、今回の生誕120年を記念した展示は、坂本遼という詩人の生涯を知るための最初で最後の貴重な機会でしょう。

 ご親族による膨大な資料提供により実現したこの展示には、遼の生い立ちから青春時代、従軍記者だった青年期を経て朝日新聞の記者をしながら児童詩誌『きりん』の綴方の選者を務め続けた壮年期まで、肉筆の生原稿や書簡を含む資料と写真などが含まれています。

 遼の生前唯一の詩集『たんぽぽ』に寄せられた草野心平の序と原理充雄の跋の草稿からはこの土着の言葉に貫かれた詩集が当時詩壇にもたらした衝撃の大きさが伝わって来ます。

 アクリルケースの中の母みつが遼に宛てたひらがなだけで書かれた手紙の前に立った時、私は、遼が病に倒れるまで続けた子どもたちの原稿と向き合う行為の原点がここにある、と直感し、しばらくそこに立ち尽くしました。

 そして、私にとって展示の白眉は、タカクラ・テルが1947(昭和22)年2月17日付の毎日新聞大阪版に寄せた『梅の花』と題した随筆でした。そこには彼が入獄中に大磯の自宅に保管していた数々の貴重な資料を戦火で焼失した悔恨の念が認められています。

 その中でも、彼が一生の不覚として嘆いたのが、遼から1931(昭和6)年に預かったままだった『たんぽぽ』の草稿だったのです。

 まさか、遼とテルがここまで近かったとは、思いもよりませんでした。大磯に移るまで、上田の別所温泉に過ごしたこの作家と詩人の関係についても、深い興味が湧いて来ます。

 展示の終り近くに、『きりん』や遼が子どものために遺した著作に寄り添うように、あの大きな革のカバンが置かれていました。『きりん』編集部に全国から寄せられた子どもたちの原稿用紙を持ち運ぶために、遼がわざわざ新調したという、パンパンに膨れて今にもはち切れそうなカバンです。その前で、私は嗚咽をこらえるのが大変でした。そのカバンには遼の想いがいっぱいに詰まっていましたから。

 遼の死に竹中郁が寄せた枯れた鉛筆書きの追悼文も、色紙に「遼よ」と筆で書かれた草野心平の字も、かけがえのない存在だったこの寡黙な詩人への敬意と友情に溢れています。

 今回の展覧会を企画された甲斐史子副館長とは時間を忘れて遼について語らいましたが、彼女の言われたとおり、遼は自身を語ることがほとんどなかったけれども、何人もの友人が彼について語る言葉から彼の生き様が立ち顕れて来る、そんな人間だったのでしょう。

 この展覧会から帰って、私は再び『きりん』を読む作業に戻りました。

 これまでは、一冊一冊の誌面に目を通す際に『この号が出た時浮田さんは何歳だった?』と反芻していましたが、いつものように綴方教室の頁にさしかかって、無意識に『この時、遼さんは54歳だったのか』としみじみ思いを馳せていました。

 このようにして、私が手に取って頁を開いた目の前の『きりん』の背後から、生きた人間のはたらきかけやかかわりあいがよみがえるのです。

 液晶画面の上を指でなぞったり、マウスを手にパソコンに見入る時間が肥大化して久しい生活を続けていますが、今にも破れてしまいそうなざら紙にさわりながら、思いもよらない発見を期待しながら頁をめくる時間には、時空を超えた人間の出会いが満ちているのです。

 忘れられた詩人・坂本遼は、そこに沈潜した人間だったように思われます。


                            (2024年12月14日)



『たんぽぽ』発表の頃の遼を表紙に戴いたパンフレット


「生誕120年記念 詩人 坂本遼展」は、2025(令和7)年3月30日まで、姫路市の姫路文学館で開催されています。この機会に、ぜひとも坂本遼に出会ってください。



 

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